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Kate
Lardner自伝「Shut Up He Explained」
TLJ最初の妻、Kate
Lardnerが自伝「Shut Up He
Explained」を出版したということで、トミー様について書かれた部分を抜粋してみました。この本に関する情報・購入はこちらへ。
今回、抜粋部分の訳を作るにあたってはDebbie's
TLJ Fansiteの主催者Debbieの協力をいただきました。原本のコピーが彼女のサイトにありますので、そちらもぜひご覧ください。
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トミー・リー・ジョーンズと出会ったのは、わたしがまだジョンの妻であった1969年の春だった。ハーバード大学出身のトミーとは、テレビドラマの撮影で知り合った(わたしはかけ出しの女優だった)。ドラマの仕事が終わってしまうと、お互いに同じNYにいたあいだですら電話や手紙をやりとりし、交際を続けていた。おかげでわたしは私書箱を持つ身となった。
秋になり、ジョンとの離婚が成立した。ジョンをひどく傷つけてしまった。
離婚しても、すぐにトミーと一緒に住むことはなかった。夜をともに過ごし、朝、子供たちが起きだすまえにトミーが帰っていく生活だった。二人が結婚したのは1970年の8月になってからだった。
1971年の4月、父、リング・ラードナーが映画『M☆A☆S☆H』の脚本でアカデミー賞を受賞した。父は1968年に、朝鮮戦争下における陸軍移動病院のコメディ小説のゲラを読んだ。この小説こそが“MASH”であり、映画の題材として最高だと直感した父は、かつて首になった21世紀フォックスに企画を持ち込んだ。フォックス社は映画化の権利を手に入れ、こうして戦争コメディ映画の傑作のひとつが生まれたのである。この作品の脚本で、父は2度目のアカデミーを受賞した。トミーとわたしはニューヨークのハンター家で授賞式のテレビ中継を見ていた。エヴァ・マリーがオスカー像を父に手渡す姿に興奮した。父は微笑みを浮かべて受賞の喜びを語った。「わたしの人生には、あるパターンが確立されました。28年周期でこの賞を受賞することになっているのです。というわけで、1999年にまたお会いしましょう」そう言ってオスカーをにぎりしめた。
その後まもなく、トミーと二人でリバーサイドへドライブに行ったときのこと。車の前にいきなりほかの車が割り込んできて、わたしは車外に投げ出された。大腿部複雑骨折。手術の後、形成外科治療が必要となり、7週間も病院に閉じ込められることになってしまった。病院側は入院すべきだといったが、それは困るとつっぱねてみた。「わかるでしょ、ふたりの子供が待ってるんだから」と。
トミーは子供たちと一緒に、あるいはひとりで見舞いに来てくれた。ときには日に二度も訪れてくれた。回復のために、再び睡眠薬を使い始めた。父の友人であるイアン・ハンターが持ってきてくれたTHCも吸引した。トミーと一緒にマリファナも吸った。トミーはマリファナのにおいを隠すため、タバコに火をつけてごまかしていた。ドアの前に物を置き、扉が開かないようにすると、ベッドに寝ているわたしの隣にやってきて、ふたりは愛し合った。
イアンが絵のモデルを連れてきてくれてたことがあった。裸の彼女に窓辺でポーズをとってもらい、絵を描いた――ただしこれは、ヌードモデルを病室に連れてきてはいけないと病院側が規制するまでのあいだだけだった。ギプスになったので退院はできたものの、彫刻になった気分だった。家ではパーコダン(鎮痛薬)を服用していた。トミーもその鎮痛剤を飲んでいた。
ギプスを当てていても、足は順調に回復していかなかった。そこで医者を変え、再び手術を受けることになった。悲劇は病院へ行く前夜におきた。扉が開いたままの乾燥機の中に、飼っていたシャム猫のカーティスが入り、温まった衣類の上に座り込んでいだ。猫に気づかぬまま、わたしは乾燥機の扉をしめてしまった。その後どうなったか、もうおわかりであろう。わたしは悲鳴をあげた。トミーが子供たちを膝に乗せて話をした姿は、今も覚えている。「いいかい、お話があるからよく聞いてね」トミーとわたしはブルックリンへ出かけ、子供たちのために二匹の子猫を買った。子猫たちはまずトミーの楽屋(トミーはそのとき、ブロードウェイの“Four
on a Garden"に出演中だった)に隠され、そのあと、わたしたちのベッドの下でこっそり一晩を過ごした。そしてクリスマス当日、子供たちへの素敵なプレゼントとなった。
車から投げ出され空中を30フィート飛ぶ前夜、わたしたちはLSDを飲んで正体をなくしたままセントラルパークをさまよい、『アラビアのロレンス』を見に行っていた。酒を飲んでいなかったのは幸いだった。
わたしは自分が酒を飲んだ記憶はないが、トミーが飲んでいたのは覚えている。
アルコール依存症について学ぶため、週に一度、ロング・アイランドにあるフリーポート病院のカウンセラーのもとに通った。匿名アルコール依存症者の家族の会合にも、何度か出席していた。
カリフォルニアに引っ越そうと話をしていた。そこにはトミーの仕事ぶりを評価してくれるエージェントがいたからだ。酒を飲むトミーに脅威を感じていたが、彼はじきに飲酒をやめた。大好きだった祖父アーチー・リーは酒が飲めなかったと、トミーが話してくれた。安心することができた。
住んでいたアパートを人に貸し、運転免許を取り、家族全員でロスに移った。
トミーのマネジャーには酒を飲まない人を雇った。
1975年9月、ローレル・キャニオンの家に引っ越した。子供たちが通うのはワンダーランド校だ。
ベッドをいくつかとカウチをひとつ借り、ロスを感じとった。
トミーは仕事を探し始めた。
67年式の青いシボレー・カマロを買った。
トミーは60年式の赤いフォード・ピックアップを見つけてくると、“ワンダー・トラック”と命名した。わたしも時々その“ワンダー号”を運転し、オーディション会場へ行ったり、子供たちの学校の送り迎えをしたりした。カントリー音楽を聴きながらピックアップを運転するのは最高だった。
黄色の猫に「ローズ」と名づけたのは、名曲『イエロー・ローズ・オブ・テキサス(荒野の黄色いバラ)』にちなんでのことだ。
ある日、娘とイースターの準備をしていた。
トミーはギターをいじりながらキッチンをうろついていた。娘のエリスが卵に絵を描き、イースターエッグを作っている。「素晴らしいできばえね」わたしは褒めた。娘は、ようじと糸をつかって試してみているのだと答えた。わたしはトミーに見て、と話しかけた。
「ああ、今年は上手にできてるな」トミーはそう言った。
エリスがトミーに言った。「ひとつ作ってあげる。名前をいれてあげるね」
「ほんとに今年は上手に作れるようになったね。でも、そんなに夢中になるなよ」トミーはギターを置いた。
「だれかこのチリを食べてみないか」手作りのチリだった。
「わたし食べる。でももうちょっとあとでね」エリスが答えた。
わたしは鍋が使いたかった。お茶にしたかったのだ。
「ちくしょう! 本当にうまいんだぞ。みんな食べてみるべきだ」トミーはテーブルを3度叩き、小声で言った。「ケイティー、チリを食えよ」
(わたしたちはマリファナを吸っていたが、トミーが酒を飲めればと願うことがあった。その行動が、以前フリーポート病院で教えてもらった飲酒における行動だったからだ。トミーは空酔い(ドライドランク)だったのだ)。
夕飯でテーブルを囲んでいたときのことだ。メニューはチキンの詰め物のワイルドライス添えとサラダだった。ジェリー・ジェフ・ウォーカーがカセットから流れていた。当時、息子のカルロは11歳で、エリスは10歳だった。
「今日の午後、家に帰ってくる途中、勇気があるのかバカなのか判断のつかない大きな黒い犬がいたんだ。ゴミ袋に穴をあけて、オニオンロールをひっぱり出して食べてたよ」トミーが言った。この夜、初めて見る楽しそうな顔だった。みんなが聞いているのを確認すると話を続けた。「ガレージのそばにあるユーカリの横で犬を見ていた。それから石ころをいくつか拾うと、犬めがけて投げてやった」
「まさか犬に当ててはいないわよね」わたしは尋ねた。「命中しなかったことを祈るわ」
「わたしも」エリスも賛同した。
「さてね」トミーが答えた。「ヤツはのろのろと精一杯の速さで走って逃げてっいった。もし田舎に住んでいたら、ゴミをあさる犬なんかショットガンで一発だ。たくさんの犬が狩れるだろうな」
「もういいわ」わたしは言った。もうたくさんだ。
トミーは自分の皿を持って居間へ移動し、テレビガイドを読みながらひとりで食事を続けた。
カルロがほっとこうよ、といった。
トミーは『ジャクソン・カウンティー・ジェイル』をはじめ、いくつかのテレビドラマをこなした。ハワード・ヒューズ役もやった。映画『ベッツイー』にも出演した。
このころ、わたしの頭から離れなかったのは、わたしと赤ん坊のための時間は尽きてしまったということだった。それが事実だったかどうかさえわからない。トミーが、家と赤ん坊の資金のために、ユニバーサルスタジオと契約したと言ってきた。「赤ん坊?」以前から、子供はもっと働いてからにしようと言ってきた。まだしばらくは、子供は欲しくない。
トミーは、どのくらい待てばよいのか知りたがった。
「さびしいと感じるだろうことはわかっているけれど」わたしは答えた。
「子供を持つことができないと言われたさびしさを、考えたことがあるか」
トミーはわたしを抱きしめ、何も怖がる必要はないと言った。そんな形のない恐怖は、朝食と一緒に食い尽くしてやると言ってくれた。でも赤ん坊を産む時間はとれなかった。わたしはいつも、大きて太ったインディアンの赤ん坊の姿を想像していた。トミーにはインディアンの血が混ざっていたからだ。
夫はどんどん有名になっていった。子供のころのわたしは、自分が有名になると思っていた。
高級住宅地ロスフェリスに建つ、8つも部屋のある、プールとジャグジー付きの家を購入した。ここはセシル・B・デミルが娘キャサリンとアンソニー・クインのために建てたものだった。
トミーは『アイズ』の撮影のためニューヨークにいた。わたしはテレビドラマの仕事でカリフォルニアにいた。キッチンに座って、知り合って間もない男と話していた。夫に愛されているか、と聞かれた。愛されているわ、と答えた。二人で酒を飲み、居間で愛しあった。子供たちは眠っていた。明け方近くになって、娘がわたしを探しに一階に下りてきた。娘は、知らない男と一緒に立っている母親をみつけた。
同じ夜、トミーもほかの誰かと愛を交わしていた。
働きに出ているあいだ、子供たちのためにベビーシッターを雇うことにした。雇った女性はソラジン(精神安定剤)を常用していた。その薬がどんなものかもよくわからぬまま、わたしは彼女のカバンから薬をぬきとった。
クリスマスのためニューヨークにいった。トミーが再び酒を飲み始めたことを知り、愕然とした。休暇準備のため、彼が滞在しているホテルで地獄のような一週間を過ごした。クリスマスには田舎の実家に帰り、わたしの両親と祖母のマリー、子供たち、いとこ家族と祝った。キッチンで飲んでいたトミーは、父の睡眠薬を盗みだした。いとこがもしトミーがけんかを吹っかけてきたらどうするかと尋ねてきた。
子供たちは、残りの休日を前夫のジョンと過ごすことになっていた。ジョンが迎えにきて子供たちを連れて行った。トミーとふたりで街に戻った。トミーの運転はメリット・パークウェイを右に左にと蛇行していたので、運転を変わると申し出た。トミーは、妻を好きにさせてやるとは、おれはなんて素晴らしい男だ、と言った。そして離婚したいと言ってきた。朝になったら話し合いましょうとだけ答えた。
翌朝になり、トミーがこの話を切り出したので、わたしは身の回りのものをカバンに詰めると家を出て、トミーのエージェントに駆け込んだ。
友人のジュリー・ガーフィールド(ジョン・ガーフィールドの娘)の家に行き、彼女とリップ・トーンの3人でぼんやり話をしながら飲んだ。トミーが電話をかけてきた。「戻ってきて欲しい」と言われたが、無理だと答えた。一生、という意味ではなかった。
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2004年5月17日、とりいそぎ訳なので適当もいいとこ
by Mika Ito
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