ヴァイオリンについて(4)

≫今まで、いろいろなヴァイオリン教師から授けられたり、自分で開発した奏法や練習方法、アイデア等、ヴァイオリンに関するよもやま話しを思いついた順に追加していきます。また、リクエストがありましたらメールでどうぞ。
(注)これはあくまでも私個人の見解ですので、以下の内容を真に受けるとヴァイオリンが下手になるかもしれません。また、記載内容は予告なく変更いたします。予めご了承ください。

(35)繰り返しによる感覚のまひ(07 Jul 2004)

 同じフレーズを何回も繰り返し聴いたり弾いたりしていると、いろいろな感覚がまひしてくるようです。恐らく時間の感覚が最初におかしくなり、次に平衡感覚、手足の感覚、などももしかしたらおかしくなってくるかもしれません。(そんなオーバーな!)

 ドラッグ系音楽というのがあるようですが、大音量で長時間全く同じフレーズを何度も何度も聴いておかしくなるという、まさにこの原理を応用しているのだと思います。クラシック音楽にもそれに近いものがたくさんあります。もしかしたら同じフレーズの繰り返しがやたらに多い曲の作曲者は、意図的にそのような効果を狙って曲を書いたのかもしれません。そう考えると、音楽というよりは、なんだろう? 一種の低周波治療器、音響麻酔器(そんなものあるか!)に近いと思います。感覚がまひしてくると、思考力が鈍り、いろいろな執着心というか雑念がなくなり、精神的にリラックスして、無我の境地に近付くのではないかと思います。滝に打たれる修行僧も全身に強い刺激を受け続け、ついに感覚がまひして無我の境地に至るといいます。原理的にはそれと同じではないかと思います。

 では、同じフレーズを何回以上繰り返すと感覚がまひしてくるのでしょうか? ぼくの考えではそれは3回以上です。2回ではまひしません。3回で初めてまひし始めます。以外と少ない数字に思えるかもしれませんが、人間は3以上の数は多いという感覚があるようで、例えばお使いで3品まではギリギリ覚えていられても、4品ともなると途中で寄り道したりするともう忘れてしまいますね。しかしちょっとでもフレーズに違いがあると聴いている人は別物と認識するためか、同じフレーズを3回以上聴いても感覚のまひは発生してきません。演奏者によっては、全く同じようにフレーズを弾くと「退屈な演奏をする人」と見られるという恐怖心があるためか、あるいは自分の時間感覚が直ぐに麻痺してしまうせいなのか、良く分からないのですが、同じフレーズになるととたんに加速し始める人がよくいます。そういう人の演奏はたぶん絶えず覚醒している飽きの来ない演奏だと思いますが、反面、このような繰り返しによる感覚のまひというのが聴いている人に起きないので、精神的にリラックスするとかの効果が得られず、最近はやりの癒し効果のある演奏にはならないと思います。

 よく、名曲と呼ばれるクラシックには、同じフレーズを2回繰り返して、3回繰り返すと思わせておいて3回目で変化を付けるということがよくあります。モーツァルトの40番など。ブルックナーはというと、もう完全に感覚のまひを狙っていますね。つまり無我の境地を。従ってブルックナーの繰り返しフレーズは完璧に同じように弾くことが重要と思えます。できれば回数を2、3倍に増やしてまひ効果を高めるとなおよろしいかと思います(もちろん冗談ですよ)。

(34)「ここは4小節一固まりで弾いてください」(16 Jun 2004)

 よくオーケストラの練習の時に楽団員に向かって指揮者がこのように指導しますよねえ。つまり4小節とか3小節を1フレーズに聴こえるようにして欲しいということで、もちろんこれって意味は分かりますが、じゃあ実際、何をどのように弾けばよいかみなさん分かりますか? 恐らく人によって考え方はいろいろ違って、例えばこんな風に考えるのではないでしょうか?

      1. 4小節目と5小節目の間にすき間を入れる
      2. 前半クレッシェンド、後半デクレッシェンドする
      3. 4小節間わずかにアッチェレランドをかける

確かにどれも1フレーズ化するにはある程度効果があると思いますが、私が最も重要と考えているのは、アクセントなのです。つまり、1小節目の1拍目以外に大きなアクセントを付けないということです。 「エッ、それだけ?」という声が聞こえてきそうですが、これを証明するのはごく簡単です。逆に各小節の1拍目にアクセントを付けてみて下さい。ぶつ切れの4小節が聞こえてきます。弦楽器の場合、弓を返すときに自然にアクセントが付きますので、この点をちょっと注意すると1フレーズに繋がって聞こえるはずです。もしも可能であれば、ボーイングをスラーにしてしまうという手もあります。ヴィオリストの滝沢先生は「4小節を1小節だと思って弾けばいいんだよ。」と言われています。つまり、西洋音楽の基本である1小節のアクセントは[強、弱、中強、弱]ですから、これを4小節に割り当てると2、4小節目にはアクセントが付かないということになります。3小節目のアクセントも1小節目ほど強くないようにします。なるほど、そう考えるとわかりやすいですねえ。さすが、滝沢先生だ。

 私の経験から言って指揮者にはこういったことまで踏み込んで説明する人はまずいないようです。「そんなこと言わなくてもわかるでしょ!」ということなんでしょうか? どの指揮者もみな結構抽象的なことを言ってます。「ここはもっと歌って」とか「ここは悲し気に」「もっと楽しそうに」とかね。それで楽団員から「具体的には何をどう弾けばいいんですか?」という質問がでないのも不思議です。指揮者は感性で指導して楽団員は感性で解釈して弾いているのか。だとするとみんなすごい芸術家だなあ。

(33)器楽的部分と声楽的部分(3 Jan 2004)

 一曲の中でも良く見ると器楽的部分と声楽的部分があります。器楽的部分とはメカニック的な動きの所で、人間の声では音符通りに音を出すのはちょっと難しい部分です。例えば、バロックで連続して移弦を繰り返すような部分です。一方、声楽的部分とは文字通り声に出して歌えるような部分です。つまり、演奏するときは、器楽的部分は機械的に正確に、声楽的部分は歌うように少しリズムを揺らしたりして弾けばいいということです。こう考えると演奏上の戦略が立てやすくなります。

 逆に器楽的部分を声楽的に、声楽的部分を器楽的に演奏するといったいどうなるでしょうか? まず器楽的部分をリズムを不正確に弾いたりすると、聴いている人にはそれが意図的なものとはあまり感じられず逆に下手に聴こえたり、変な癖のあるプレーヤーと思われるかもしれません。また、声楽的部分をリズムを揺らさずに全く正確に弾くと、音楽的に無味乾燥なものに聴こえてしまうかもしれません。

 まあ、とりあえず器楽的部分と思われる部分では無理に歌おうとせずに、声楽的部分で歌えれば十分と思います。

(32)リズムは足から(20 Nov 2003)

 西洋音楽のリズムは基本的に足で、つまりステップで取るとよいと思います。と言うより足から来ている、足で決まると言ってもいいかもしれません。子供のリトミック教室なども、行進しながらリズム遊びをしますが、それは正しいリズムを身に付けるのにとてもいいことだと思います。例えばワルツの3拍子は1拍目がかなり強く3拍目が少し伸びるようになるのが普通ですが、なぜそのようなリズム感になるのかと言えば、ワルツを踊る人のステップを踏む時の重心移動に関係があるためだと思います。つまりワルツの大きなステップを踏み出す前の拍は大きく重心を移動させるために時間が取られるわけで、そのため3拍目は伸びることになる、というより次の1拍目であるステップを大きく振り出そうと狙いを定めている、という感じです。

 ワルツに限らず4拍子系も同じでしょう。ステップでリズムを取っていれば、大きなアクセントを付けるためには、重心を大きく移動させてステップを踏み出すことになり、前の拍に自然とためが生まれるでしょう。逆に大きなためというか重心移動に時間をかけないでもしも大きなアクセントを付けてしまうと、不意をつかれてビックリする感じがします。また不快感を感じるかも知れません。そういう効果を狙ってアクセントを付けることももちろんありますね。ハイドンの「驚愕」とか。あと、いきなり強いアクセントが付くとその反動で次のステップが影響を受けて遠くなる、時間が少しかかるようになる、つまり次の拍が遅れて出てくることになります。といってもほんのわずかな違いですが。

 足でリズムを取っていれば、ステップの強弱と重心移動の関係からそれぞれの拍がどのようなタイミングで出てくるか自然に決まるので、演奏は違和感のないリズムになると思います。ただ、演奏中はナイジェル・ケネディは別として歩いたり、踊ったりできないので、あくまでもイメージでリズムを取るしかないです。まあ、足先ぐらいは動かせると思いますが。ぼくはというと、たいてい足先か、かかとか、上半身(左右に)が動いているかな。コンマスをやっているときはその動きが合図にもなります。

 よく演奏が走ってしまう人がいます。そんな人は是非、足でリズムを取るようにしてみてください。特に走る人は裏拍の意識が希薄なために、表拍が常に前倒しで出てくる傾向があります。4拍子だと4拍目が極端に短くなることがあります。そういう人も歩いているつもりでリズムを取っていれば、走らなくなると思います。そのときの重心はもちろんあまり前にかけないようにしないといけません。重心が前に掛かっているとだんだん加速して、しまいに走ります。

(31)「間」ってなんだろう?(10 Oct 2003)

 またまた書き込みが久々になってしまいました。これからは気軽に短かめにまとめようと思います。実を言うと最近新型(でもないけど)パソコンを購入して、ずいぶんスピードアップしたので快適に作業できるようになりました。

 さて本題ですが、テレビで「トリビアの泉」というのが流行っていますよね。「へえ〜。」っていうやつです。あの番組のVTRのときのナレーション、例えばだいぶ前に見たのに「タイでは徴兵は、・・・(長〜い間)・・・くじ引きで決める。」とかいうのがありました。つまりこの妙に空いた無音の時間が「間」というものだと思います。これはいったいなんでしょうか?

 もう一つ、これもテレビですが、「おしゃれ関係」でゲストへ宛てた手紙を古館氏が読み上げた後、ゲストの少し涙ぐんだ表情がアップになって、ゲストか古館氏が次に何か一言言うまでの無音の数秒間。それから、NHKの「プロジェクトX」でナレーションがクライマックスに達した直後、ゲストの顔がドアップになっての無音の数秒間、などなど。

 つまり、この無音の「間」があると、「次に何があるんだろう?」と興味津々となって神経が集中してきたり、じ〜んと感動しているって感じが続いている時間、余韻に浸る時間があるわけです。これは音楽にも特に重要だなと最近思うようになりました。この間があるのとないのではえらい違いがあります。

 例えば、好きな人から「私ねえ実はあなたのこと・・・・・・・・・・・・・好きなの!」と十分間を取って言われるのと、「私ねえ実はあなたのこと好きなの!」と全く間がなくスラスラ言われるのと、どっちがより感動的でしょうか? やっぱり「間」があった方がうれしいですよね。不思議なもんです。たったこれだけのことで。

 でも、どういう所にどれだけの「間」を入れるかはセンスの問題ですね。それが才能というものなのかな? 一応、理屈としては、その前にどれだけエネルギーを蓄えたかにより、どれだけの間を取るべきかが自然に決まるようです。そう考えるとやっぱり「トリビア」のナレーションにある「間」は妙に長過ぎると思うんですけどね。ちょっとわざとらしいなあ。一方「プロジェクトX」の「間」はGoodだと思います。

(追加)
 今、所属するオーケストラでラフマニノフのピアノコンチェルト第2番を練習しているのですが、終楽章に大きな「間」があり、そこのピアノを聴く度に「走り幅跳び」を思い出します。わかるかなあ。気合いを入れてスタート、徐々に加速、全力疾走の末スピードの頂点で踏み切り、高く舞い上がり無音で空中遊泳(まるでスローモーションを見ているように)、着地!! その後の世界新記録で沸き上がるスタジアム。。。なんてね。もしもコンサート聴きに来ても、本番中に思い出して笑わないようにお願いします。