ギリシャトルコ編

オリンピアへ

 30分ほど遅れてパトラス行きのバスが来た。皆は時間の遅れはあまり気にしていない様だ。バスに乗り込む。かなりバスに乗っただろうか、ずっとウトウトしていた。イテア(Itea)という海岸ぞいの町でバスを降ろされる。今さら何だが、バスはあまり好きじゃ無い。どこに連れて行かれるか分からない恐怖感がある。まして、目的地のの途中で降ろされるとかなり不安だ。かなり待って、乗り換えのバスが来た。時間は信じられない位ゆっくり流れている。さっそく乗り込む。この後、ずっと海岸線を走っている。景色がたいへん美しい。ここまで、どこでもそうだったが、オリーブの畑が多い。どこにでもある。そこに糸杉が点在している。このように糸杉を見るのは初めてだ。今まで、ゴッホの「星空」のような糸杉は、デフォルメされているものだと、ずっと思っていた。それと同じ形の糸杉があっちこっちにある。僕にとってはすごい発見だった。
 乗り換えてから完全に目がさめた、が、どうも腹の調子が良くない。水が欲しい。今思うと、なにやってんだと思うが、この時迄は水を携帯する感覚は無かった。山の方へ行くのなら別だが、普通、日本の夏の旅行に水など持っていったことがない。暑くて冷たい水が欲しいのではなく、空気はもちろん何でも乾燥しているせいだと思う。自分の甘さを痛感する。
 バスはかなりのスピードで走っている。まわりの景色は美しい。のどかな田舎の風景だ。馴染みの植物も目に付く。夾竹桃、鬼アザミ、ブーゲンビリアなど日本のものと同じかどうかは知らないが、似たような植物がある。特に、老生化したオリーブの木の形が面白い。抽象化したその形は、東洋の絵の画題にもなるだろう。ときおり、ロバや羊も見かける。のどかだ。

 気になったのだが、このバスは、基本的には海岸線の街道を走っているが、時々、脇道にそれる。時には、車巾一杯の山道に入り込み、どう見ても普通の民家の家の前で乗客を降ろす。また同じ道を戻り海岸線に出る。このようなことが、何度もある。個人の家の前まで送り届けているのだろうか。不思議だ。
 パトラス到着の時間を調べなかったが、この調子だと何時間かかるのだろう。今日中にオリンピアまで着けるのだろうか。パトラスからピルゴス、そこからオリンピアまで。まだまだ先は長い。フェリーが見えた。船着き場近くまで行くが、車内に動きはない。フェリーの出るのを見送るだけで、それに乗り込む気配はない。コリントス湾を渡るのはここではないらしい。僕の気だけがあせっている。しかも、僕の座席の窓は閉まらない。風に当りっぱなしだ。暑いのと風に当り続けるのとどっちが疲れるのだろう。つまらないことを考え出した。
 今まで民家の壁は白いのが多かったが、煉瓦色の壁が目立つようになる。ずいぶん走っているような気がする。ときおり、海岸まで出る。そこで人が乗り降りする。まわりには、人家らしいものはない。やっぱり不思議だ。ごく普通の道ばたで再度の乗り換えがある。町の名前は分からなかった。ここまで何度かバスに乗ったが、ギリシャのバスはみんなくたびれている。古いとか、汚いとかより、くたびれているという感じだ。このバスは特に凄い。遺跡はもとより年代物が好きなのだろうか。足元で何かが、カサカサいっている。気にはなるが正体は分からない。
 街が近付いて来て海岸はリゾートの雰囲気をただよわせて来た。中世の要塞の向こうにフェリーが見える。マーキェリーフェリーと読める。やっとアンデリオン(Andirrion)のフェリー乗り場に付いたらしい。到着時間16時35分。一度バスから降ろされて17時20分フェリー出港。30分には対岸のリオン(Rion)についた。乗り込みは手間取っていたが、出るのは早い。一家族を置いて行きそうになる。特別な案内もなかった。足元でカサついている奴の正体が分かった。カメムシだ。もともと虫は苦手だ。ひとりでひと騒ぎしてしまう。18時パトラス(Patras)着。

 ここは都会だ。町も大きいのでピルゴス(Pirgos)行きのバス停がどこか分からない。人に聞きながら探す。ずいぶん戻った所にバス停があった。待合所で軽食とコーラ、整腸のため紙パックのヨーグルトドリンクを買う。このパックのヨーグルトがものすごくおいしい。本場ではヨーグルトはすくって食べるもので、ヨーグルトドリンクなんて日本独自のものだと思っていた。バスの時間を見る。次は18時30分発。今夜は、野宿も覚悟しなければいけないのだろうか。バスに乗り込むとリオンで、乗り遅れそうになった家族と一緒だ。人は良さそうだが、何となく頼り無さそうなパパと、やんちゃな子供達だ。席の事で修道女ともめている。パトラス迄のバスは自由席だったが、ここからは指定席だ(バスがきれいだということはない)。修道女は、さとすように話をし、自分の席を確保した。音楽のような会話だった。相変わらず子供達は我が物顔だ。言葉が分かれば、一言いいたい雰囲気だ。
 パトラスの町は、海岸線を中心に山へ向かって延びている。町の雰囲気は熱海に似ている。大きな船が目立つ。イタリアから船でギリシャに入ると、ここに着く。重要な交通の起点らしい。町の丘の上にはアクロポリスや、城郭跡もあるということだ。時間があったら寄ってみたかったのだが、時間が押している。大きな教会が目立つが、何となく真新しい。後で聞いたのだが、ギリシャ独立戦争の際、トルコ軍の報復にあい、町はすべて壊滅したそうだ。
 海岸線を走ってる。柳だろうか、ユーカリだろうか、風にそよいで涼しげだ。窓側の席で、ウトウトしていた。町に入って信号待ちの時、道路脇の教会で結婚式をしていた。ちょうどライスシャワーの中、新郎新婦が教会から出て来た所だった。その時、僕の隣の通路側席の若い男が身を乗り出して、いきなり教会前の新郎新婦に向かって、何かを叫んで手をふっている。向こうでも答えるかのように、バスに向かって手を振りはじめる。バスが動いても後ろ向きで手を振っていた。彼に、あなたの友だちかと聞いたがニコニコしているだけだ。僕は状況が分からなく、きょとんとしたままだ。国民性なのだろうか。
 しばらく走ると大きな煉瓦工場が見えた。ここまで建築中の住宅がいくつかあったが、ほとんど、鉄筋にブロックのような煉瓦を積み上げただけの躯体で建てられている。ずいぶん簡単で、強度とか大丈夫なのだろうかと思う。煉瓦工場の先にモデルハウスらしきものがあり、たいへん立派だ。でも地震とか心配ではないのだろうか。20時半過ぎ、ピルゴス到着。まだ明るい。

 オリンピア行きのバスは21時15分。これまで待てない。とにかく宿が決まっていない。ためらわず、タクシーに乗った。今迄の景色とは違い、緑が深い。木々の美しい穏やかな丘陵地帯を抜けて行く。オリンピアでの宿泊先を聞かれるが、まだ決まっていない。現地でゆっくりホテル選びをしようと思っていたが、そんな余裕はなさそうだ。ガイドブックに、遺跡にも近く目貫き通りの突き当たりにAクラスのホテルが出ていたので、そこ迄行ってもらうことにした。町中に入った頃は薄暗くなっていた。町はシンプルな造りで、一本の通りの両脇にお土産物屋や、レストランが並んでいる。その突き当たりにホテルがあるはずだ。立地的にちょっといい気分だったが、近付くにつれて不安がよぎる。すこし高台に建っている大きな建物が見えるが、何か様子が違う。明かりが見えない。左に迂回し車寄せに入って、タクシーは止まった。ホテルは廃墟になっていた。遺跡巡りをしに来たのだが、ホテルの廃墟はいただけない。
 運転手は僕が誰かに騙されたと思い込み、心配して色々聞いてくれる。予約がどうとか、電話がどうとか、旅行代理店はどうとか。僕の悪い語学力で、しかも今のこの状況で、一つ一つすべてを返答するのは不可能だ。運転手は心配そうにポリスまでつれて行ってくれる。トラブルがないことを告げるが、聞く耳は持ってくれてないようだ。意外だったのは、ここのポリスはツーリストポリスといって、観光案内やホテルの紹介もしてくれる。胸に何カ国かの国旗のバッチを付けている。自分の会話できる国のバッチらしい。遺跡に近い、適当な値段のホテルをいくつか紹介してくれる。ホテルはすぐに決まった。タクシーの運転手はずっと付合ってくれた。仕事だとしても暖かい人だ。
 ホテルは、値段の割に広くてきれいだ。町へ情報収集に行く。明後日の夜にはアテネに着いていないといけない。ペロポネソス半島を縦断する、トリポリス経由、エピダヴロス行きというコースをとりたかったが、トリポリス行きのバスは明日は7時15分1本しかない。オリンピアを見学してたら明日は当然乗れない。

 夕食をとる。お客の多い大きいレストランだと食事は楽だ。まわりを見渡して、美味しそうなものをこっそり指差して注文できる。いままで、ピッツアとスタッフドトマトだけだったが、食事にバリエーションが増えた。タラモサラダ、ドルマーディス(ピラフを葡萄の葉で包んだもの)、グリークサラダ(グリーンサラダに山羊のチーズを乗っけただけ)など食べた。観光地のせいか、ちょっと高めだが、あまり美味しくはなかった。安いワインだけは美味しかった。
 ホテルに戻って、2泊にしてもらうよう頼んだ。この旅行の中でオリンピアは重要な目的地だ。まる1日ゆっくり見物しようと思う。


オリンピア(Olympia)

 オリンピアと聞くと誰もがオリンピックを連想するだろう。古代オリンピックは紀元前776年に始まり西暦393年を最後に約1000年も続けていたそうだ。驚いたのは、紀元前6〜5世紀頃全ギリシャを巻き込んで全盛を極めたということ。当時のギリシャは広大だったはずだ。正直に行って、ここは田舎だ。古代は栄えていたのだろうが、アテネやスパルタのような強力な都市国家だったという話は聞かない。なのに、1000年も競技会は続けられた。中立的な都市国家だったのだろうか、もしくは現代では想像も着かない神聖な聖域だったのだろうか。とにかく1000年も続けられたことは興味深い。
 西暦393年テオドシウス帝によりオリンピックは中止され、426年にここの神殿も破壊されたという。そう言えばこのローマの皇帝、デルフォイの神託をも中止させた人物だ。現在でもあっちこっちで宗教にからんだ戦争が起きているが、世界世論なんて関係なかった当時は、凄まじいものだったに違い無い。だんだん使われなくなり、崩壊してゆくのはしかたないし、哀れと思うが、突然破壊されたら壮絶であり悲惨だ。

 6時頃から目がさめる。9時頃やっと起き出す。腹の調子は相変らず良くない。朝食を済ませさっそく遺跡へ向かう。ごく薄く雲がかかったような天気だが、緑がきれいで爽やかだ。遺跡までは10分たらずで着く。遺跡に対する先入観だが、都市内に残った遺跡は別として、砂漠もしくは荒涼とした土地に存在するものだと思っていた。ここは木立が生い茂り草むらが沸き立っている。

オリンピア遺跡の柱列

 遺跡に入ると右側に柱列が見える。このあたりは、体育館と練習場だったらしい。柱は四角い敷地をぐるりと囲むように並んでいる。かなり広い。
 この奥にフィディアスの仕事場跡がある。フィディアスは紀元前五世紀頃の彫刻家であり、建築家だ。アテネのパルテノン神殿建設の総監督である。発掘が行われて、ここでゼウス神殿のゼウス像が制作されたことがわかった、工具などが出土したそうだ。フィディアスは実在する偉大な彫刻家であっただろうが、僕の気持ちの中に「伝説の人」という意識があった。それが、初期キリスト教教会この場所に作業場が有り、工具が出土したとなるとぐっと現実味を帯びる。作業場跡に入って、天才芸術家に少しでもあやかりたいと思うが、ハッキリとした場所が分からない。ここに現在有るのは、キリスト教の教会跡だ。初期キリスト教期の遺構だろうか。明るい景色の中で、厚い煉瓦で囲われたこの場所はちょっと異質だ。壁の透かし彫りのデザインが面白い。
 その奥にLeonidaion(レオニデオン)と呼ばれる宿泊施設跡が広がる。かなり広そうだ。遺跡は草むらに消えてゆき、どこまでが遺跡かはっきりしない。紀元前330年レオニダスという人物によって寄贈されそう呼ばれるらしい。その並びにBouleuterion(ブレフテリオン)という評議会場跡と、南の柱廊が有るが、半分近くは草むらに被われているだろう。こっちの方までは人はあまりこない。すごく静かだ。「夏草や兵どもが夢の跡」芭蕉がここへ来たらやっぱりこう詠んだかも知れない。
ゼウス神殿 戻って、ゼウス神殿へ向かう。建設は紀元前470〜456年。床は一段高く積まれ、いかにもこの聖域の中心だ。規模も大きい。柱は下の石がわずかに残るだけで、基壇のみの遺構だ。長い年月で床は大きくうねっている。でもここにはフィディアスのゼウス像があったのだ。古代の世界七不思議に数えられるあれである。像は木製で高さ14m。体は象牙、衣服は黄金で作られていて、右手にはニケ像を、左手には錫杖を持った姿であったと伝えられている。また、真偽は分からないが、ゼウス像はオリーブオイルのプールに置かれ、参拝者がコインを投げるとオリーブオイルが噴水のように流れ出し、ゼウスの体を浄めたという、世界初の自動販売機だったと記憶している。
 ゼウス像は、オリンピアが聖域としての機能を失うと、コンスタンティノーブルへ運ばれ、後に焼失したそうだ。象牙や黄金で作られているのだから焼けなくても無くなってしまったかも知れない。宗教や時代が変わると形を失ってしまう、金で作られた美術品の宿命かも知れない。
ヘーラ神殿 いくつかの建物跡を抜けるとヘーラ神殿に出る。ドーリア式柱列を持つ世界で最も古い遺構だ。再建が紀元前600年頃といわれている。かなり細長い神殿で、残っている柱は建物に比べ、ずいぶん太いものだ。力強さと重厚さでは、他に類を見ないような気がする。この遺跡からプラクシテレス(Praxiteles)のヘルメス像が出土した。
 競技場へ向かいます。途中、右手におびただしい数の祭壇がある。生贄を捧げたと説明があるが、結構な数が並んでいる。まさか生贄は人間では無いだろうから、みんなで集まって集団バーベキューパーティでもしたのだろうか。左側には各都市の宝庫が並んでいる。ここは丘の斜面を削った様な場所になり、日陰になっていて、まわりが明るいせいか、かなり暗く感じる。しかも石が墓のように見え、ちょっと無気味だ。
 競技場入り口には石のアーケードがかかっていて、そこをくぐると広いトラックに出る。スタートラインが残っていて、やはりと言うか、競争をしている若いグループがいた。一人で走っているわけでは無いので、ずいぶん楽しそうだ。気になったのは、映画の「ベンハー」では、楕円型で一周を回れるトラックだったが、ここやデルフォイのトラックは一直線だ。時代の違うせいだろうか、行われていた競技が違うのだろうか。
 この遺跡は初夏が素敵だと聞いた。木々がいっせいに芽吹き、草花の絨毯で被われるそうだ。実際のことは知らないが、騙されてみたいような気もする。

 遺跡を出て、向いにある博物館を目指す。遺跡の発掘はフランス人によって1829年から始められた。その後、発掘品の本国持ち出しがあり、発掘は中止。1874年ドイツ人により発掘が再開される。発掘された出土品は博物館で公開されている。
 オリンピアの博物館でまず見たいのは、プラクシテレスのヘルメス像だ。デッサンの学習をされた方には、お馴染みの石膏像だと思います。実は、僕はこの石膏像が好きになれませんでした。甘い線、薄っぺらな量感、中途半端なトリミング、全てが嫌いでした。しかし、ある日この彫刻の図版を見た時にまったく違う印象を受けました。名前こそ同じですがまったく別の物でした。そのズレをを確認したくここまで来ました。今回の旅行の三大必見の一つです。とにかく最初にヘルメス像を探しに行きます。

ヘルメス像 よく、ギリシャの彫刻と言いますが、大理石の人物像に限ると、その数は多くありません。アルカイック期の彫刻はそこそこ数がありますが、ギリシャ彫刻の黄金時代だったはずのクラシック期のものがあまり現存しません。とくにクラシック時代後期は、彫刻家の名前が何人も残っているのに、完璧に近い形で作品が残っているのはこのヘルメス像しか知りません。ローマ期にほとんどが、ローマへ略奪されたと聞いています。ギリシャ彫刻はクラシック後期に黄金時代を迎えました。プラクシテレス、スコパス、リュシッポスの3大巨匠を輩出した後は、彼等の作品を手本に石像が制作(模作)されていったと聞いています。これは明らかに模倣です。またヘレニズム期以降大理石像は神殿に奉納されるものから富裕な市民の庭を飾るものになってゆきます。当然需要は増え、粗雑なものが多く作られるようになるのは想像の範囲を超えません。そしてローマ期にはいると、ギリシャの神々は、ただの戦利品でしかなくなります。巨大なローマ帝国では、戦利品だけでは当然数も足りず、ギリシャ彫刻の偽作を多量に生産することになります。
 例外や、違う意見もあるでしょうが、大筋はこんなとこだと思います。残念ですがクラシック後期の傑作は略奪、戦災よる破壊によって、失われて行ったと僕は思っています。また、ヘレニズム期、ローマ期に全てとは言いませんが素晴らしい作品が作られなかったのも事実です。プラクシテレスのヘルメス像は唯一無二のクラシック時代後期の作品で、ギリシャ彫刻の最高傑作です。
 この像は、1877年ヘーラ神殿から発掘されました。紀元前2世紀の旅行家、バウサニアスの記述に基づき、作者はプラクシテレスと特定されてます。パロス島の大理石で、紀元前330年頃作られたそうです。ヘルメスが赤ん坊のディオニュソスを代抱いている姿で、ヘルメスの右腕とディオニュソスの両腕は失われていますが、その形は容易に想像がつきます。赤ん坊のディオニュソスの視線の先にヘルメスの手があり、葡萄の房を持ってディオニュソスをあやしているようです。ディオニュソスはヘルメスの肩につかまり、葡萄の房を取ろうと左手を延ばしているものと思われます。失われた手がこの作品の価値を下げることはありません。
 体はしなやかにひねられ、肌は柔らかそうでスベスベしています。人間が美しいと思う人体の形を、頭の中で一杯に膨らまし、最高の感性と技術を持った彫刻家によって具現化されたすばらしい彫刻です。美しい顔だちのヘルメスの視線は優しくディオニュソスに注がれ、もともとギリシャの神々は人間的ですが、これは父と子の肖像彫刻なのではないかと錯覚させるような優しさを感じます。
 また、木に掛けられた布は、石なのに布と同じ重量しか持たず、柔らかくも張りのある質感さえ持っています。プラクシテレスの才能のなせる技でしょう。これ以降このような彫刻は盛期ルネッサンスまで待たなければなりません。

ゼウス神殿西破風 ゼウス神殿の破風彫刻がすごい迫力です。厳格様式の硬さはあるものの素晴らしいものです。東の破風は戦車レースの様子で、西の破風はケンタウロスの花嫁の略奪の様子が表現されている。西の破風がだんぜん素敵だ。元々破風に収めるべきの物なので、近くで見ると形が狂っているのが気になるが、遠くで見上げるようにして見る事を想定して設計彫刻されたものと思われます。遠くで見上げるような展示方法だと、この巨大な彫刻のよさが十分に出る様な気がします。
 テラコッタの作品で、ガニメディスを誘拐するゼウスの像があります。1mほどでテラコッタでは大きめのものです。ゼウスが鷹に変身してガニメディスをさらうのは知っていましたが、ポセイドンのモザイクこれは人間(神)の形のまま小脇にガニメディスを抱えてさらっています。擬音を付ければ、「すたこらさっさ」という感じです。たいへんユニークで面白いものだと思う。
 ここには競技で使ったと思われる道具が色々あり面白いものです。胸当てや臑当て、ヘルメットなどもあります。できることなら一度身に付けてみたいものです。その他、青銅製の小さな馬に良いものが有りました。

 一度ホテルへ戻って休む。疲れているせいか、すぐ寝てしまった。夕方目をさます。町へ出てお土産物屋などを冷かしながらぶらぶらする。20時半頃食事。ホテルの人に、美味しい所としつこく聞いて来たレストランだ。一人だがテラスを陣取り色々食べた。オリーブオイルも気にならないし、魚も美味しかった。なにより山羊のチーズがうまかった。値段は昨日の所より少し高いくらいだ。来るなら絶対にこっちだ。
 当初、トリポリスを経由し、うまく行けば、スパルタ見学、エピダヴロス見学をし、アテネへ戻るコースを取りたかったが、どう考えても無理だ。しかたないのでおとなしく真直ぐアテネへ向かう予定だ。明日のバスの時間を確認して、ホテルへ戻る。




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